浮世絵の中の春慶寺
江戸時代に描かれた浮世絵「押上村行楽」
江戸時代18世紀後半の浮世絵に春慶寺のことが描かれています。
勝川春潮 押上村行楽
江戸時代も十八世紀の後半ともなると、江戸の人々の行動範囲は広くなり、日帰りの行楽も近郊にまで気楽に足を伸ばすこととなる。折しも天明年間(1781~89)は、浮世絵では洋風の遠近法を取り入れた浮絵(うきえ)が成熟期を迎え、その収穫は風俗画方面にも活用されて、背景をなす自然景観が現実感をともなって表されるようになってきた。季節ごとの風物を賞で楽しみつつ散策する行楽人物の様子を描いた二枚続、三枚続の風俗画が目立って多くなってくるのである。その先駆をつけたのが鳥居清長だが、追随して、塁を摩すほどに優れた作品を数多く生んだ画家に、本図の作者勝川春潮(生歿年不詳)がいる。
春潮は、勝川春章の門人だが清長の作風を慕い、いささか臆面もなく、近似した美人画風で天明年間から寛政年間(1789~1801)初めの時代の好尚に応えた。清長から歌麿へと、浮世絵の美人画様式が展開するその間の、皮肉に言うなら偉大なる亜流画家であった。
本図は、右端の図に、「普賢菩薩」、「押上村」と彫られた石碑が見えるところから、江戸北東の郊外、押上村の辺りにまで出かけてきた江戸の人々と、その土地の人々の風俗および自然を描くものと了解される。「普賢菩薩」とは、普賢堂のある春慶寺のことであろうから、画面の後方を流れる川は、隅田川と中川とを横に結ぶ北十間川ということになろう。この辺りは、北に三囲神社、東に亀戸天満宮などの名所も多く、舟を利用すれば気易く逍遥の楽しめる地域であった。路を行きちがいざまに好意ある視線を交わし合っている男女が、若侍は軽い羽織、女たちは日傘と、初夏の候を思わせるから、亀戸天神の名物である藤の花見がてらの人出ということであろうか。釣竿を手にしたり、草刈籠を背に負う村童や、馬を曳く農夫の姿も遠近に配され、田圃や林が遠くはるかに広がっている。川に入って魚を釣る男は、土地の人か、趣味のために遠出してきた人か、いずれにしても心ひろがるのどかな田園風景にふさわしい点景として画中に働かされている。
○講談社 秘蔵浮世絵大観ベレス・コレクションより